Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。109であり、カラヤンはヤノヴィッツの行動を背信と感じたのだ。彼女の側でも、決裂の危機が明らかであれば、ウィーンをキャンセルする選択肢もあったはずである。実のところ、この春ザルツブルクのオペラ公演は《フィデリオ》であった。つまりカラヤンは、ウィーンでバーンスタインが振ることを意識して、同時期に同じ演目をぶつけたのである(レオノーレは、前年夏に彼の《サロメ》で大成功したヒルデガルト・ベーレンス)。それでもヤノヴィッツがキャンセルしなかったのは、そこまでのリスクはないと考えたためだろう。しかし、実際には決裂となった。彼女は、カラヤンに「Leben Sie wohl」と言われてハッとしたという。というのはこの言い回しには、(「Auf Wiedersehen(また会いましょう)」とは違い)もう二度と会わない、というニュアンスがあるからである。それは、15年にわたる共演の幕が閉じた瞬間であった。 なお上記の「ドイツ・レクイエム」は、偶然映像収録されており、ヤノヴィッツは完璧に歌っている。声の衰えはなかったが(当時40歳)、以降彼女のザルツブルクへの登場回数は確実に減ってゆく(カラヤンは彼女のレパートリーをアンナ・トモワ=シントウに与えるようになる)。そして1981年の《ナクソス島のアリアドネ》(サヴァリッシュ指揮)で、ヤノヴィッツの同音楽祭でのキャリアは終わる。「時の流れとは不思議なもの」とは、《ばらの騎士》の元帥夫人のセリフだが、残念な結末としか言いようがない。 グンドゥラ・ヤノヴィッツと言えば、カラヤンが1960~70年代に重用したソプラノである。銀線のような美声は、まさに彼の美学とぴったりで、「4つの最後の歌」(R.シュトラウス)をはじめとする名盤は伝説的だ。しかし両者の共演は、70年代の終わりにぷつりと途絶える。筆者は以前からその理由が気になっていたが、先日ヤノヴィッツがインタビューで事情を明かしているのを聞き、驚いた。 事の始まりは、70年代初頭にカラヤンが、彼女に《フィデリオ》のレオノーレ役をオファーしたことである。同役はドラマティック・ソプラノ向きで、リリック・ソプラノのヤノヴィッツには重すぎる。時期尚早だったが、その場で断ることはカラヤンを怒らせる可能性があった。それゆえ彼女は、「アリアを試演させてほしい」と願い出、劇的なフレーズをシューベルトの歌曲のように歌い、彼が自ずと理解するように仕向けたのだった。 こうして一件は収まったが、問題は彼女が1978年1~2月にウィーン国立歌劇場で同役を歌うオファーを受けたことである。ヤノヴィッツ自身は声が成熟していると判断して承諾したが、指揮はバーンスタインだったのだ。 言うまでもなく彼は、カラヤンの最大のライバルである。「バーンスタインが(“カラヤン歌手”の)私を嫌っていたことは、最初のリハーサルから明らかでした。彼はわざと遅すぎるテンポを取って、私にひどい思いをさせたのです。その約1ヵ月後、ザルツブルク・イースター音楽祭でカラヤンとブラームスの『ドイツ・レクイエム』を演奏しました。カラヤンは公演が終わると、別れ際に『Leben Sie wohl(どうか元気で)』と言って私の手にキスをしました。それが、彼と共演した最後でした。彼は、私がバーンスタインの《フィデリオ》に出演したことを知っていたのです」 読者は以上を聞いて、「そんなことで関係を絶つものなのか」と思うだろう。しかしこれは、決して珍しいことではない。指揮者とは本質的に唯我独尊連載 No.103城所孝吉?カラヤンとヤノヴィッツの決裂の背景とは
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