eぶらあぼ 2024.12月号
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101 11月29日、プッチーニが没後100年を迎える。彼は20世紀前半において、最も成功を収めた作曲家のひとりだった。《マノン・レスコー》以後は、国内外で盛んに作品が上演されたが、ベルヌ条約(著作権が加盟国のどこでも保障される条約。1886年締結)のおかげで、キャリア当初から印税も確実に入ってきた。そのためかなりのお金持ちになったが、他の作曲家たちからは妬まれたという。プッチーニの作品が調性的=大衆的・迎合的であるという評価は、この背景から生まれたかもしれない。歳を重ねるごとに美男となり(若い頃はフツーだったので、成功とは不思議なものである)、各地に愛人を作っては情事にふけるなど、男性としても相当にやり放題。話が旨すぎるというか、他人から見たら少々いけすかないタイプである。同様に成功して妬まれたリヒャルト・シュトラウスと似ているが、両者はそのことを意識していたようで、互いに距離を取っている。 筆者も実は、プッチーニとその作品には何となく抵抗を感じている。とりわけ好みでないのが、《ボエーム》である。このオペラ、旋律美とドラマに溢れた真の傑作で、ビギナーにも一番に薦めたいが、自分でははっきり言って好きではない。ミミがあまりに「男にとって都合のいい」キャラクターだからである。彼女は可憐でいじらしいが、第1幕では自分から男が言い寄るきっかけまで作ってくれる。「ろうそくが消えたから火をください」と若い男の部屋に入ってくる娘など、当時の感覚でいるだろうか。ロドルフォが何もしないので、鍵を落としてセカンドチャンスさえ与えるが、女性の立場から見たら少々あざといだろう。 その一方で、結核にかかって男にとって面倒な状況になったら、自分から身を引いてくれる。「ピンクのボンネットを形見にもらってね」などと可愛いことを言うが、重病で囲う男がいなくなるのに、そんなに呑気でいられるのだろうか。別れを切りだされたロドルフォは、さらりと責任を取らずに済んでしまう。 原作のミミは、もっとしたたかで強い人物のようだが、こういう役柄になったのは、ひとえにプッチーニが好みの女性像に変えたからである。台本作者のイッリカとジャコーザは反対して、「そんなことをしたら、本来の『ボエーム』ではなくなってしまう」といきり立ったようだ。しかし、プッチーニは押し通した。そして作品が当たり、オペラ界のスターになると、自分好みのキャラクターを書かせる傾向はさらに強まり、リブレッティストたちを困らせたという。 そうした点も含めて、なんか嫌な奴だなぁ、と思うのだが、面白いのは、こうした男性原理がどこか透けて見え、作品に表れているところである。それがドラマに深みを与えているようなところさえあり、一筋縄ではいかない。ミミには、清純さの背後に男に依存して生きざるを得ない女性の狡猾さが見えるし、《蝶々夫人》では、ピンカートンが身勝手でコロニアリズム的な男性社会を代表していることは、一目瞭然である。プッチーニはそうした自己欺瞞があることをおそらく承知で、それを作品に書き込んだのだった。 というわけで、憤懣たらたらになってしまったが、そういう筆者でも、《トスカ》はまったく見飽きることがないし、《蝶々夫人》を聴けば毎回泣けてくる。マッチョだなぁ、と思っても、作品が素晴らしいので、咎められないのである。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。 No.101連載城所孝吉作品が素晴らしすぎてマッチョさが咎められないプッチーニ

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