eぶらあぼ 2024.10月号
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123 8月24日、バリトンのジークフリート・ローレンツが亡くなった。彼の名前を知っている人は、相当なオペラファンだろう。1945年にベルリンで生まれた彼は、ベルリン国立歌劇場の専属歌手として、1980年代の東ドイツを代表する歌手だった。とりわけドイツ歌曲の解釈で知られ、「東のフィッシャー=ディースカウ」と呼ばれていたという。しかしそのキャリアは、90年代の初頭、40代半ばの円熟期で突然途絶えてしまう。 その背景にあるのは、当時の政治的状況、つまり東ドイツの終焉とベルリン音楽界の再編成である。「壁崩壊」前の同劇場は、東独内ではトップだったが、西側のスターが登場するわけではなく、ややくすんだ印象であった。しかし1990年にドイツ統一が達成されると、ベルリン州政府は、ベルリン国立歌劇場を「スカラ座やMETにも比肩する」国際的オペラハウスにする方針を打ちだす。「リンデンオーパー」は、新インテンダント(ゲオルク・クヴァンダー)を迎え、1992/93年シーズンにはバレンボイムを音楽総監督に獲得して、実際一流カンパニーとしての道を歩み始める。94年にベルリンに来た筆者は、それをつぶさに体験したが、クヴァンダー時代(2002年まで)は、紛れもなく同劇場史の黄金期と呼べる。 しかしその背後には、影もあった。東独時代に看板を張っていた歌手たちが、ことごとく解雇されたのである。チェレスティーナ・カーサピエトラ、マグダレーナ・ハヨーショヴァー、エーファ=マリア・ブントシュー(以上ソプラノ)、ウテ・トレーケル=ブルクハルト(メゾソプラノ)等。これらの名前を、80年代の来日公演で知るオールドファンも多いだろう。彼らがお払い箱になったのは、ローレンツ自身の言葉によれば、残存することが「新生」の障害となったためだという。東独時代のスターが歌い続けていると、劇場の古いイメージを刷新できないのだ。 それは、おそらくその通りだろう。バレンボイム時代を印象付けるためには、新しいアンサンブルを作り上げ、別の風を送らなければならない。事実、90年代に同劇場が契約した若手の多く(レシュマン、トレーケル、パーペ等)は、その後国際的に活躍するほど優れていて、実に新鮮だった。 ローレンツのケースが不幸なのは、他の同僚たちが50歳を超え、「寿命」を全うしていたのに対し、彼は絶頂期にあったことだろう。ローレンツは解雇後、弁護士を介して3年の客演契約を取り付けるが、ひと言だけの端役を提案されるなど、屈辱的な扱いを受けたという。その後数年は、フリーとして他の歌劇場に客演していたが、やがて「意気消沈して」ベルリン芸術大学などで教職に専念。94年6月の《カプリッチョ》伯爵役で最後の舞台を務めた後(筆者はこれを観た)、リンデンオーパーには一歩も足を踏み入れなかった。 今ローレンツの録音、とりわけシューベルトやマーラーの歌曲を聴くと、彼がまぎれもなく一流の歌手であったことがわかる。東独風の古めかしさは皆無ではないが、声は輝きに満ち、表現は直截的で虚飾がない。状況や身の振り方が異なっていれば、統一後も(とりわけ西側で)活躍することができただろう。しかしそうならなかったのは、歴史の不思議。皮肉なのは、彼の最も有名な録音が、フィッシャー=ディースカウのキャンセルで舞い込んできた《マイスタージンガー》の全曲盤(サヴァリッシュ指揮、ベックメッサー役。1993年録音)だということである。この時彼のキャリアは、すでに終わりかけていたのだった。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。 No.99連載城所孝吉「歴史の陥かんせい穽」にはまった東独の名バリトン、ローレンツをめぐって

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