eぶらあぼ 2024.8月号
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113 SNSで時々炎上するテーマとして、「クラシックに知識は必要か」という問いがある。最近読んだ投稿は、「音楽を前情報なしで感性だけで聴いても、もちろんオーケー。しかし、作品の背景を知ると鑑賞に奥行きが生まれ、体験が豊かになる」という至極まっとうな意見だった。ところがコメント欄を見ると、意外に反論が多いのである。これはおそらく、そのような聴き方をしていない人々が、自分を否定されているような気持ちになるからだろう。それはよくわかる。とりわけビギナーは壁を作られているようで、面白くないに違いない。 しかし問題は、それに対する反論が「知識はいらない。感じるままに聴けばいい」という論調になりがちなことである。元々の投稿は、「感じるままに聴いてはいけない」と言っているわけではない。「知識があれば、聴くことがより楽しくなる」と提案しているのである。その際「知識」とは、知ったかぶりするためのウンチクではなく、作品理解を助ける情報や学識を指している。「クラシックは狭き門だからいい」、「教養のある人だけが理解できる」ではなく、「知ることによってもっと面白くなりますよ!」というのが趣旨だろう。 そしてそれは、その通りだと思う。クラシックの世界が奥深いのは、端緒となる感覚的な感動から、いくらでも体験を掘り下げられるからである。例えばショパンなら、入門者はその音楽を聴いて、「どこか懐かしい。悲しいけれど温かい」と感じるだろう。しかし彼が若くして亡命し、常に故国に想いを馳せていたことを知ると、その「懐かしさ」が、(手が届かないものへの)「憧憬」であることが理解できるのである。そのような知識は、あればあるほど鑑賞の手助けになる。 しかし、「知識は不要である。感性で聴くだけでいい」というやや攻撃的な論調がメインとなり、そこに「教養を前提とすることは排他的である」というポリティカル・コレクトネスが重なると、知識の立場は俄然悪くなってしまう。情報を集めることがスノビズム扱いされ、理解を育むことが推奨されなくなったら、クラシックは確実に面白くなくなるだろう。知ることを恐れる必要はまったくない。今知識を持っている人も、何かのきっかけで情報を集めはじめたのであって、最初は無知だったのである。 その際、『ぶらあぼ』をはじめとする音楽関連メディアや書き手の役目は、「知識を増やすとずっと面白くなる!」という機運を広めてゆくことだと思う。昨年休刊した『レコード芸術』がオンラインで再スタートすることになったが、筆者が期待しているのは、それが音楽についての知識を伝達し、議論をする場所となることである。作曲家や作品、演奏家について情報を集め、それとともに演奏を楽しむことは、音楽を聴く醍醐味だと思う。我々書き手は、そのことを読み手に伝えていかなければならない。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。 No.97連載城所孝吉「クラシックに知識は必要か」という議論をめぐって

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