復活祭を舞台とするオペラの定番と言えば、《カヴァレリア・ルスティカーナ》である。出征中に他の男と結婚した恋人への腹いせからサントゥッツァを愛するようになったトゥリッドゥが、ローラとよりを戻して不倫。捨てられたサントゥッツァがローラの夫アルフィオに告げ口した結果、男たちの間で決闘となり、トゥリッドゥが死ぬ、という物語である。場所はシチリアの小村、時は復活祭の朝。幕開けでは、ヒロインがトゥリッドゥの母ルチアのもとを訪れ、「彼はどこにいますか」と消息を尋ねる。 その際台本には、オペラ・ファンの間で議論になる個所がある。上記の場面で、ルチアは事情を打ち明けるサントゥッツァに、「(人に聞かれたらまずいので)家に入りなさい」と促すが、彼女は「私は入れません! scomunicataなのですから」と答えるのである。このscomunicareという動詞(scomunicataはその受身形)は、辞書を引くと「破門する」という意味になっている。しかし、神聖ローマ皇帝が教皇から破門される「カノッサの屈辱」ならともかく、田舎娘がわざわざ教会裁判で破門される、ということはちょっと考えにくい。 それゆえ意味が分からず、議論になるのだが、scomunicareは当文脈では、カトリックの聖餐(聖体拝授と拝領)との関係で考えるべきである。聖体を拝授することをイタリア語ではcomunicareというが、ここではそれに排除をマークする接頭辞「s」が付いている。つまりscomunicareとは、(誰かを)聖体拝領から排除する、という意味なのである(英語のexcommunicateと同義)。サントゥッツァは、トゥリッドゥと恋愛関係になるものの、その後結婚せずに捨てられているので、19世紀後半の南イタリアでは名誉を失った存在である。要するに彼女は、「自分は聖餐から除外された身なので、あなたの家には入れません」と言っているのだ。 もっとも今日では、パンとワインを受けられない信者は、きわめて頻繁に存在する。「秘跡(サクラメント)」の誓いを破った人々、具体的には、離婚して再婚した人々である。カトリックでは、結婚は「ひとりの相手に死ぬまで添い遂げる」ことが前提とされている。そのため離婚して再婚することは、神の前で立てた誓約を破ることになるのである。ゆえに再婚者は、どんなに熱心な信者でも聖餐に参加することができない。 ほかにも、「自分は罪を犯した」と感じている人は、自戒ないし償いから聖餐を辞退することができる。パンやワインを食することは、キリストの血と肉を身体に入れることであり、信者はそれで新たな生命を得る。そのため拝領時には、それにふさわしい素行でなければならないのである。サントゥッツァがトゥリッドゥに捨てられたことは、すでに人々の噂で、「ふしだらな」彼女は、村八分にされていた。当時のシチリアで、聖餐からの除外がどの程度行われていたのかはわからないが、サントゥッツァはひょっとすると、羞恥心から自粛したのかもしれない。 ちなみに、神聖ローマ皇帝が教皇からscomunicareされる場合も、事情は基本的に同じである。教会のトップが「今後聖餐には参加させない」と宣言しているわけで、ハインリヒ4世はパンもワインも受けることができなかった。それは中世のコンテクストでは、「お前に神の救いはない。地獄に落ちろ!」と言われているのと同義である。そうした直接的な含意がやがて抽象化、一般化されて、「破門」という意味になったのだろう。もっとも「カノッサの屈辱」の頃(11世紀)には、抽象的な意味はすでに確立されていたと思うが。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。111 No.94連載城所孝吉「カノッサの屈辱」と《カヴァレリア・ルスティカーナ》の意外な結びつき
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