てほどなくサンフランシスコ響音楽監督を経て、米国3大オーケストラのひとつ、名門ボストン響の音楽監督という栄光のポストを得るにいたるのは周知のとおりである。 1974年秋、私は彼が2年前から首席指揮者を務めていた新日本フィルの欧米演奏旅行に取材のため同行したのだが、その中の一日、パリのシャンゼリゼ劇場で行われた演奏会の時のオザワの凄まじい人気には、文字通り肝を潰してしまった。特にカーテンコールでオザワが出て来ると、上階席を埋めた大勢の若者たちが、拍手と歓声と足踏みで猛然と沸き返るのである。彼の「外国での人気」がまだ現実的に受け取られていなかった日本(今と違って当時は情報不足だったのだ)では、想像もできない光景なのだった。 「パリの客は小澤さんのことを好きですからね」と、パリ在住の日本人ジャーナリストS氏が言っていたことがある。私も後年、もう一度パリでそれを目の当たりにした。それは2007年に彼がパリのオペラ座(バスティーユ)でワーグナーの《タンホイザー》を指揮した時のことなのだが、彼がオーケストラ・ピットに登場すると、満員の観客とオーケストラの楽員たちの熱烈な拍手が、いつまでたっても止まらないのである。カーテンコールでは、それに舞台上の歌手たちも加わり、拍手もブラヴォーも一層盛り上がって、劇場内の人気はただオザワひとりにいつまでも集中しているのだった。あの光景は本当に感動的で、これを日本の人々にどうにかして伝えたい、と思ったほどである。――思えば彼がまだ元気でザルツブルク音楽祭などにも盛んに出演していた時代、終演後の小澤さんの楽屋には、世界的な演奏家やマネージャー、レコード会社のスタッフなどが集まり、常にごった返していたものだったが、この時はパリでもその状況が繰り返されていたのだ。彼のパリでの人気は、それほどまでに高かったのである。 小澤さんには独特の強烈なカリスマ性と放射力があり、彼と至近距離で対峙した者なら、だれでも瞬時にしてその眼のとりこになってしまうことは経験済みであろうと思う。だが彼自身は、常に気さくで、開放的だった。日本フィルや新日本フィルの楽員たちは、若い楽員さえもが、彼を「小澤先生」でなく、いつも「小澤さん」と呼んでいた。そういう友達のような親しみやすさを備えている大指揮者でもあったのである。 1976年、小澤さんが日本でムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》(リムスキー=コルサコフ編曲版)を指揮した時のことである。私はFM東京の番組で、そのリハーサルから本番直前のゲネプロ(総練習)までの模様を録音で追い、「小澤征爾 《ボリス》を創る」というドキュメント番組を構成して放送したことがある。小澤さんの至近距離に立てたマイクには、彼の演奏指示から歌声からうなり声から、はては独り言まで、すべてがとらえられていた。その中に、練習のちょっとした合間に、楽員の前で呟くこんな言葉があった――「腹へったなあ(笑)、腹減った! あのさ、こういうロシアの物凄い曲やる時はさ、やっぱり凄い肉かなんか食っとかなきゃだめだね。こんな(分厚い)ステーキとかさ。ざるそばじゃダメだ」。 私は彼のこの呟きを聞いて、いっそう小澤さんという指揮者が好きになった。もちろん、その呟きは、そのまま放送した。29
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