eぶらあぼ 2024.4月号
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111 小澤征爾が亡くなった。いつかこの日が来るだろうとは分かっていたが、現実になってみると、その喪失感は絶大だと言わなければならない。筆者は本人とは面識を得る機会がまったくなく、インタビューもしたことがなかった。そのため、距離感は普通の音楽ファンと同じである。筆者にとっての彼は、「今から60年ほど前に、東洋人として西洋音楽の世界に切り込んだ真のパイオニア」である。海外で活躍する邦人音楽家で、「小澤さんがいたから、世界に出ていくことができた」と感じている人は多いだろう。 これは本人にとっても、大きなテーマだったはずである。ある時、日本の若い指揮者が彼に、「必ずしも欧米で活躍できなくてもいいと思う」と言って、大喧嘩になったことがあるという。それはそうだろう。小澤は、西洋音楽が日本人にとって本質的に異質であることを深く理解していた。文化の壁を越え、ドイツ人やフランス人に認められるレベルに達することの重要性を痛感していたのである。それを体を張って行ってきたのに、「自分は世界で通用しなくてもいい」と言われたら、腹が立つに違いない。 サイトウ・キネン・オーケストラは、小澤の芸術家としての道程とミッションを楽団の姿で具現したものだと思う。同団が1980年代の終わりに設立された時、小澤の頭にあったのは、「ワールドスタンダードに達した日本人音楽家は、ひとつのオーケストラを作るくらいいる」ということだったのではないか。そしてそれを、ヨーロッパでツアーを行うことによって、本場の音楽ファンに示したかったのだと考えられる。当時の演奏、とりわけブラームスの交響曲第1番の名演が、どれほど衝撃的だったか。それは、リアルタイムで体験した人々にとっては、「日本人によるクラシックもここまで来たか」と感慨深いものだった。 そして、我々が記憶にとめておかなければならないのは、小澤の芸術が欧州でどう理解されていたか、ということである。実はある時期、筆者は音楽業界の人々から、よく「小澤さんって、ドイツではどう受け止められているんですか」と聞かれた。その口調には、「本当に評価されているのか」という懐疑的なニュアンスが混じっていた。筆者はそれに対し、いつもこのように答えた。「彼は、まぎれもない大スターです。ドイツ人も、オーストリア人も、フランス人も、彼のことが心から大好きです。誰もが彼の演奏を聴きたいと望んでいるし、切符も一番先に売り切れます」。 小澤は、欧州のクラシック・ファンにとっては、最も魅力的な音楽家のひとりだった。日本人であることは、まったく問題ではなかったのである。彼が、すべての様式をマスターし、それをトップクラスで再現できることは、彼らにとっては自明のことであった。それに疑問を挟む人はいなかったし、端的に言えば、彼のオリジンは、どうでもいいことだったのである。それほど小澤は、「彼らの」音楽家であり、真のワールド・アーティストであった。それが、小澤征爾についての真実だと思う。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。 No.93連載城所孝吉文化の壁を越えた「真のワールド・アーティスト」、小澤征爾

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