eぶらあぼ 2024.3月号
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113 年明けは、毎週ベルリン・フィルの定期演奏会に通った。ペトレンコが2回、ハーディングが1回指揮し、両者ともに素晴らしかったが、一番驚かされたのは、ガッティの回だった。プログラムは、シェーンベルク「浄夜」、R.シュトラウス「死と変容」、ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》から〈第1幕への前奏曲〉と〈愛の死〉。何にビックリしたのかというと、彼の指揮のあり方が、他とまったく違っていたからである。 筆者が実演を体験した指揮者のなかで、最も優れたテクニックを持っていたのは、マゼールである。彼の指揮は、団員から見て、「自分がどのように弾いたらいいのか」が、手に取るようにわかるものだった。オーケストラの演奏で難しいのは、テンポの変化である。慣性の法則があるので、一般に発進と徐行、停止がコントロールしにくい(トラックの運転と同じ)。マゼールはその変化を、見ていて面白くなるほど、完璧に操ることができた。ダイナミクスも同様で、ピアニッシモからフォルティッシモまで自由自在。逆に言うと、出てくる音は、完全に彼のタクトどおりであった。これは指揮のひとつの理想形であり、大抵の指揮者が目指している。 しかし今回の公演で、ガッティは最初、テクニックがないように見えた。振りの80パーセントが、表現にあてられていると同時に、振っている姿と出てくる音が違うからである。音と姿がかみ合わない場合、普通は音の方が良くないのだが、ガッティの場合は逆であった。出てくる音の方がずっと表現力があり、濃厚なのである。 これは彼にテクニックがない、ということではない。よく見ると、テンポの変わり目や各楽器の入りに完璧にキューを入れていて、高い技術を持っていることがわかる。しかし全体としては、「どのような音楽をしてほしいか」というメッセージの方が伝わってきた。そして不思議なのは、表現主体なのに、肝心の音楽的頂点では、彼が振っている以上の、さらに密度の高い音が出てくることである。こんな指揮は、これまでに見たことがない。 聴き続けるうちに、「浄夜」の終盤になって、彼がしていることがおぼろげながら見えてきた。おそらくガッティは、勘所で自分が持っていきたいところの90パーセントだけを示し、後はオーケストラの能力と自発性に任せているのである。指揮とは難しいもので、団員に「ヤレ!」と言えば、その通りになるわけではない。演奏がエモーショナルなのは、数十人の感情が一丸となるからだが、頭ごなしに「感情を出せ」と言っても、そうはならないのである。そのため優れた指揮者は、団員が自分から「そう弾きたい」と感じる状況を作ることを考える。おそらくガッティは、クライマックスで最大限の感情的密度を得るために、方向だけを示して、後は団員が「自らそこに到達すること」を狙っているのである。 奏者の自発性を引き出す「究極の指揮法」だが、こうした振り方は、言うまでもなくオーケストラに技術と表現力がなければ成り立たない。つまり彼がこの方法を取ったのは、相手がベルリン・フィルだからなのである。実際筆者は、ガッティが首席指揮者を務めるフィレンツェ五月音楽祭管での演奏を聴いたことがあるが、彼はまったく違う(=普通の)振り方をしていた。今回の出来には本当に目を見張ったが、オーケストラの演奏は本当に面白いと思う。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。 No.92連載城所孝吉ガッティが見せた「究極の指揮法」とは?

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