37 “ヴァイオリンの女王”アンネ=ゾフィー・ムターは、2019年10月、第31回高松宮殿下記念世界文化賞(音楽部門)を受賞した。これは絵画、建築など5部門で世界的芸術家に贈られる栄誉ある賞だ。 「世界を変えたさまざまなアーティストと同等の評価をしていただけたことに感動しています。特にこれまで受賞した女性音楽家、アルゲリッチやグバイドゥーリナのような方々と名を連ねられるのは、大変光栄です。そして個人的な喜びは日本での受賞ということです。それは1980年代にカラヤンと訪れてデビューして以来、この国に恋をしてしまったからです。日本には素晴らしい庭園、歌舞伎や相撲、食文化などがありますが、聴衆の皆様の音楽に対する愛情と理解が一番素晴らしいと思います。なのでいつも日本に着くと“帰ってきた”という気持ちがします」 彼女は10代から40年以上もの間ヴァイオリニストとしての活動に専念してきた。その点も稀少だ。 「私は指揮者など別の道を考えてはいません。なぜならヴァイオリンのレパートリーが膨大にあるから。そしてまたこの楽器のための現代音楽をもっと書いてもらわねばならないと強く思うからです。ちなみに私は最近もアデスなど複数の作曲家に作品を委嘱しています。さらにはベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲にも取り組みたい。これは学生時代からの夢でした。このようにヴァイオリンで手が一杯です」 来年2月には、「サントリーホール スペシャルステージ 2020」としてベートーヴェン生誕250年の記念公演を行う。これは、ヴァイオリン協奏曲と三重協奏曲などを披露する「協奏曲」、弦楽三重奏曲と四重奏曲などの「室内楽」、ヴァイオリン・ソナタ第4番、第5番「春」、第9番「クロイツェル」を弾く「リサイタル」の3本からなる多角的な内容だ。 「ベートーヴェン・イヤーにあたって幅広いレパートリーをご紹介したいと思っています。ベートーヴェンは、ヴァイオリン・ソナタの書法そのものを変え、ソロ楽器としての地位を確立しました。最初にモーツァルトが後期のソナタで扉を開き、ベートーヴェンの10曲のソナタ─特にop.23、24、47(次回演奏される3曲)─でヴァイオリンはピアノと同等の楽器になりました。そしてその技巧的な要素が、パガニーニ以降のヴィルトゥオージティをもたらしました。ですから彼は、歴史的にも中心にいる作曲家です」 来年ベートーヴェンを演奏するのは、記念イヤーだけの意味にとどまらない。 「何より重要なのが、ベートーヴェンが世の中に何をもたらしたのか? ということ。彼の時代から250年が経っていますが、現代人にも強い繋がりを感じさせます。それは彼の哲学である“闇から光へ”に拠るものでしょう。その哲学がもっとも表れている『第九』の〈歓喜の歌〉の『人間は皆兄弟である』という考え方や、すべての人々を包み込む音楽のメッセージは、現代人にも響きます。世界にはまた“壁”が作られている。そのような時代だからこそ彼のメッセージは、重要性を持って明確に伝わってきます」 今回の受賞理由の一つが「後進音楽家の育成への尽力と慈善活動」。「アンネ=ゾフィー・ムター財団」を中心としたその活動も際立っている。 「財団では、若い奏者たちにステージでの演奏経験をしてもらいますし、必要な方のために楽器を購入する活動も行っています。また、重要なサポートとして現代作曲家への作品の委嘱、エージェントやレコード会社の方の前でのオーディションを可能にしています。そしてもっとも伝えたいのは、音楽は人々が一丸となって生み出すものであること。だからこそ価値があると思うのです」 このほか、「将来的にはジャズ・クラブや野外でのコンサートも考えている」、「ヴァイオリン奏者もピアノや他の弦楽器、オーケストラのスコアを学ぶこと、演奏する作曲家の時代の文学や絵画などを知ることが重要」、そして「人生そのものが教育であり、人生は光と闇のサイクルであることを受け入れるのが大事」等々、その言葉は示唆に富んでいる。 次回の公演で、人生経験を反映しながら円熟味を増した彼女の演奏にぜひ触れてみたい。ベートーヴェンの精神は、今の世界にこそ必要なものです取材・文:柴田克彦 写真:寺司正彦Prole現代最高のヴァイオリニストの一人。13歳でヘルベルト・フォン・カラヤンに見出されデビュー、カラヤン指揮ベルリン・フィルと共演を重ねた。その後も世界的指揮者や演奏家と共演。非常に細かい独特のビブラートなど卓越した演奏技術を持つ。レパートリーも幅広く、現代音楽に対する理解の高さでも知られる。後進音楽家の育成と慈善事業にも力を注ぎ、2017年にフランス芸術文化勲章コマンドゥールを受章、19年10月に高松宮殿下記念世界文化賞(音楽部門)に選ばれた。
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