eぶらあぼ 2019.8月号2
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164コンクールと国民意識 前回は、コンクールが音楽家にとってキャリアに結びつくか、というテーマを扱ったが、今回は、それが欧州の音楽ファンにとってどのような意味を持つか、ということについて考えてみたい。日本では、コンクールは音楽界、あるいは社会一般において大きなテーマである。しかし欧州、少なくともドイツでは、一般の愛好家はほとんど気にも留めない周辺的な出来事と言える。 もちろんドイツでも、現在(6月後半)、チャイコフスキー・コンクールが行われていることを知っている人はいる。しかしそれは、業界人か音楽学生であって、一般の人ではない。ショパン・コンクールは、ポーランドでは国民的行事だが、それは地元で行われる数少ない国際的イベントだからだ。似たようなことは、チャイコフスキー・コンクールについても当てはまる。しかしドイツでは、ミュンヘン・コンクール(ARD)が一般レベルで話題になるということはまったくない。ミュンヘン市民で、「今、わが町でコンクールが行われている」などと意識している人は、100人にひとりもいないだろう。 なぜそうなのだろうか。端的に言って、ヨーロッパ、少なくとも「大国」の人々は、日本人のように「わが国の若者が国際的な場で勝った」ということに、それほど価値を見出していないからである。もちろんドイツ人も、オリンピックで自国の選手が金メダルを取れば、素直に喜ぶ。しかしその人物が、国民的英雄かというと、必ずしもそうではない。ひとりの人物に、そこまで「国」を負わせることはしないからだ。ショパンやチャイコフスキーでドイツ人が優勝したからと言って、それがテレビでドキュメンタリーになったり、社会現象になったりすることはない。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。 これはドイツ人が、自国の位置付けに自信があるからだろう。オリンピックでは、ドイツはロシアや中国に続いて、金メダルが一番多い国に数えられる。ロシアや中国は、国威を示すためにオリンピックに力を入れるが、ドイツはそれほど気張ってはいない。世界的にトップであることは、彼らにとっては当たり前だからである。一方同じドイツ語圏でも、「小国」のオーストリアやスイスでは、インターナショナルであることを重視し、強調する。ルツェルン音楽祭の正式名称は、Lucerne Festivalだが、ここには「国際的フェスティヴァルは、英語でなければならない」というコンプレックスが絡んでいる。 筆者は、フランス人のコンクールへの反応については知らないが、おそらくドイツと似たような状況だろう。彼らも、自国の若手がショパンやチャイコフスキーで勝ったからといって、それほど祭り上げたりはしない。フランス人は、自分たちが(政治的にも文化的にも)重要な国だという意識を持っており、それをコンクールによって証明する必要がないからである。そう考えると、我々はどこか複雑な心境にならざるを得ない。コンクールとは、それに対峙する人の自意識を映す鏡なのである。城所孝吉 No.37連載
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