eぶらあぼ 2019.6月号
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187噴出した。あげく、ろくに動かない「ノンダンス」まで生まれる始末。だがそういう「自明」を一つひとつ潰すことで、確実にダンスの本質は深まり、領域は広がってきたのだ。 現代サーカスも、表現しようとする作品世界がオリジナリティに溢れたものであればあるほど、観客には「なんでそこでお手玉を始めるの?」という疑問が湧くようになってくる。その点ヨアンは従来のジャグリングやアクロバットといった現代サーカスの定番を使わない。それらの本質のみを抽出し、伝統を継承しつつも新しい形態そのものを創り出そうとしているのだ。 一方でダンスの側から見てみると、ヨアンは、ダンスとは違った発想で、舞台芸術の新しい可能性を探っている。ダンスはたいてい「まず身体をどう動かすか」から始まる。本作のように、トランポリンや身体が吸い込まれるようにいなくなる仕掛けなど、外的要因からの発想で舞台を作るのは邪道視されがちだ。しかし現代サーカスの学校やセンターには、必ず鉄工所のような工房が併設されている。大きな装置やセットから発想される表現の大切さを十分に知っているからだ。そしてヨアンはコンセプチュアルでありながら、かつてのノンダンスのように身体性を手放したりはしないのである。 …等々。若い連中に、色々学んでほしいのだ。もうすぐ第2の来日熱望アーティストもやってくる。合言葉は、パパイオアヌー!第56回 「無限への落下者」ヨアン・ブルジョワの革新性を見よ! 今年は、オレが来日を熱望していたアーティストが立て続けにやってくる。その一番手が、いま最も熱い舞台芸術である現代サーカスの雄、ヨアン・ブルジョワの『Scala –夢幻階段』だ。4月末、静岡が誇る“攻め”のフェス「ふじのくに⇄せかい演劇祭」が招聘してくれた。 全体は青いトーンで統一され、同じ服装の男が何人も出てきて床や階段のあちこちに音もなく呑み込まれては消えていく。床に倒れこんだと思うと、まるで時間を逆回転させたように戻ってきて着地する(床の一部がトランポリンになっている)。座ろうとする椅子とテーブルはバラバラになっては元にもどる…というね、悪夢のような魅力に溢れた舞台だった。 オレが注目するのは、ヨアンが「現代サーカスの側」「コンテンポラリー・ダンスの側」の両面から見て、画期的な面を持っているからだ。 まず現代サーカスの側からすると、「伝統に由来する常識から離れている」「技のスゴさでアピールする作品ではない」ということだ。現代サーカスは様々な表現スタイルを獲得したとはいえ、大半はボールやスティックなどのジャグリング用具を使ったり、シーソーや人間ピラミッドなどのアクロバティックな技など、なじみのあるサーカス要素が、当然のように含まれる。 もちろんその上で新しい表現を生むものもあるが、現代サーカスが舞台芸術として進化する以上、かならず乗り越えなければならない壁がある。それは「自明とされてきた常識を疑うこと」である。 たとえばダンスは、何百年にもわたって「曲に合わせて身体を動かすもの」だと思われてきた。しかしこの百年ほどの間に「なぜ音楽を使うんだ?」「なぜ動きを曲に合わせる必要がある?」「ただ歩くだけでダンスにはならんか?」「てか、身体を動かす必要ある?」「そもそも身体が舞台上に存在する意味なくね?」等々、もはや禅問答のような疑問がProleのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com/乗越たかお

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