eぶらあぼ2017.7月号
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23顔では笑いながらも心で泣いている元帥夫人の心情を表現したい取材・文:岸 純信(オペラ研究家) 写真:藤本史昭 声音は朗らか、主張はストレート。でも、品の良い物腰を崩さずに林正子は語る。迸るような声の勢いと知的な解釈力、上背ある抜群のプロポーションを武器にドイツやフランスのレパートリーで大活躍の林だが、昨年も東京二期会《ナクソス島のアリアドネ》で圧倒的な存在感を放ち、大喝采を浴びていた。さて、この名ソプラノが、来る7月、同じくR.シュトラウスの《ばらの騎士》で、妙齢の元帥夫人役を演じることに。抱負を詳しく尋ねてみた。 「元帥夫人(マルシャリン)は、贅沢な館で召使に囲まれながら、夫のいない間に年下の従弟との逢瀬を楽しむ貴族女性です。ウィーンの宮廷社会を描くオペラだから設定が煌びやかですね。でも、彼女の行い自体は、もしかすると私たちの実生活とも変わらないのでは? とも感じています。ただ、ひとつ興味深いのは、元帥夫人の境遇が物語の中で激変してしまうこと。開幕冒頭の彼女はまだベッドに居て、愛人のオクタヴィアンから『昨夜の君は素晴らしかった!』と呼びかけられますが、歌詞をよく読むと――私の個人的な解釈ですが――あれ、この二人の情事はひょっとしてこれが初めて? と思えます。二度目や三度目ならそんな言葉は出ないでしょ(笑)。でも、愛人を得て自分の若さを体感したばかりの元帥夫人が、いきなり出てきた年若いゾフィーに彼をかっさらわれてしまう。彼女はそこで、一転して“老い”を突きつけられてしまうのです」 確かに、手にした歓びが一瞬で零れ落ちてしまうそのショックは大きいかも? 「第3幕で彼女が口にする言葉も象徴的ですね。『これはウィーン風のお話なの。真剣なことは一つもないのよ!』。だから笑って赦してねと言いたげです。でも、私はそこに、自分の解釈を一言足してみたいのです。『そう、ウィーン風の遊び。でも、遊びだと思っていたのに、なぜこんなにも悲しいの? こんなはずじゃなかったのになぜ涙が出るのかしら?』と。演じる際は、顔で笑って心で泣いてという、その胸中を、背中で語ってみたいです。ただ、オクタヴィアンに去られた傷が癒えたなら、元帥夫人はすぐ新しい恋人を手に入れたと思いますよ(笑)。宮廷社会ならそれも普通のことでしょうから」 どんな立場でも、人間はそうやって少しずつ傷つくことで、より大きく成長するのだろう。では続いて、《ばらの騎士》の音楽的な特徴について。 「私は、このオペラを中学生の頃から聴いていて、R.シュトラウスのオーケストレーションの素晴らしさや、半音進行の有名なフレーズなど、本当に身体に馴染んでいます。そのゴージャスな響きは、客席の皆様にもきっと堪能していただけることでしょう。でも、自分が元帥夫人を演じるとなると、第1幕の途中までは、歌うのがそれは大変。オクタヴィアンやオックス男爵、面会に詰めかけてきた人々とずっと会話し続けますから、言葉の応酬の妙技のような名場面ではあるのですが、そこで声を頑張り続けるとたちまち消耗してしまいます。できればピアニッシモで、小鳥が囀るかのようにこなしていきたい。不必要に力を入れないで歌い続けられればと願っています。でも、その一連のシーンを乗り越えた途端、この作曲家ならではの旋律美が押し寄せてきて…その爽快感が、歌っていてもひとしおなんですよ。例えるなら、フィットネスに行ってサウナに入って、帰宅して一時間待ってからビールを飲んだ時の至福のひとときのようなもの。私はオヤジでしょうか?(笑)」 いえいえ。音楽性を冷静に分析すればこそのコメント。このように、逞しさと優雅な個性と兼ね備える林は、《ばら》に続いてはワーグナーの《ローエングリン》でもエルザを歌う予定。まさに、押しも押されもせぬ、東京二期会のプリマドンナである。 「普段はお話ししないことですが、実は、夫がロシアからの亡命貴族の末裔でして、今でもパリで、年に一度は舞踏会を開くような一族に育ちました。ですから、私も欧州の貴族社会を実際に見ている人間として、このマルシャリンの役に挑みたいと思っています。《ばらの騎士》、ご来場お待ちしています!」Prole東京芸術大学、同大学院を経て、ジュネーヴ音楽院ソリスト・ディプロマ取得。二期会《ニュルンベルクのマイスタージンガー》エーファ、《皇帝ティトの慈悲》ヴィッテリア、《ファウストの劫罰》マルグリート、《サロメ》《ダナエの愛》及び《ナクソス島のアリアドネ》題名役等に出演し、何れも鮮烈な存在感を示している。コンサートとしては読売日本交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団との共演や、フランス歌曲、R.シュトラウス作品を集めたリサイタルを開催。2018年には二期会《ローエングリン》エルザに出演予定。ジュネーヴ在住。二期会会員。

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