201706
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173ヨーロッパ音楽界における批評家の役割 日本で音楽評論、音楽ジャーナリズムと言った場合、音楽の内容を論じる仕事を指すだろう。しかしヨーロッパでは、ジャーナリストが果たす機能は若干異なっている。もちろんコンサートやCDの演奏を評価し、叙述する側面もあるが、それ以上に重要なのは、政治的役割である。つまり、文化政策に積極的に関わり、劇場、オーケストラ等の政治的決定は、その影響のもとで下される。 具体的には、次のようなことである。つい先頃、カンマーアカデミー・ポツダムの首席指揮者アントネッロ・マナコルダが、ベルリン・コーミッシェ・オーパーで《セヴィリアの理髪師》(新制作)を振ったが、この劇場では現在、次期音楽総監督を探している。マナコルダも、当然選考の対象となったが、彼は公演をひと通り振った後、最終的に選ばれなかった。すると、有力日刊紙『ヴェルト』の記者マヌエル・ブルク氏が名乗りを上げ、彼を援護射撃する記事を載せたのである。「マナコルダを採らないなんて、馬鹿げている」といった論調だが、ジャーナリストが劇場の政治的、芸術的決定に口を出し、流れや方向を動かすことがごく普通に行われる。 こうした影響力の行使は、指揮者だけではなく、例えば劇場やオーケストラのインテンダント(総監督)選抜等に際しても行われる。また「ベルリン・フィルを国立化すべきか」といった議論にも、当事者(ベルリン・フィル、ベルリン州政府、ドイツ連邦政府)とは無関係に、新聞が意見合戦を展開する。現在ミュンヘンでは、バイエルン放送交響楽団の新ホール建設がテーマとなっているが、ここでも音楽評論家の演じる役割は大きい。面白いのは、実務にProfile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。当たっている政治家や関係者が、明らかに論争の機運を参照し、受け入れながら、自分たちの決定を行う点である。つまりジャーナリズムの政治的機能が、自明のこととして認められている。 これが可能なのは、ヨーロッパでは劇場やオーケストラが州や国の助成を受け、そのお金で運営されているからだろう。一般にクラシック音楽は、実際に聴いている人の数に対して、掛かる経費=税金支出が莫大である。ゆえに運営上の政治的決定は、公共の場で議論されるべきものと考えられているわけだ。もちろん日本でも、新聞が文化政策に意見することは間々あるが、劇場の運営、芸術上の決断に直接口を出すことは、考えにくいのではないだろうか。少なくとも、「○○交響楽団の首席指揮者には誰々がなるべきだ」等の論説を展開する新聞は存在しない。それは、日本の文化運営がプライベートを基盤としているからで、この状況が音楽評論、ジャーナリズムの機能をも規定しているのである。「音楽評論家イコール新聞記者」である点も、日本とは微妙に異なる。日本では、新聞のクラシック担当記者は音楽評論家ではないが、ヨーロッパでは、芸術と政治の両面で意見を発する存在なのである。城所孝吉 No.11連載

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