eぶらあぼ 2017.4月号
192/205
201ルはボッシュの時代の不当な待遇を受けていた人々を描いているのだと。しかし演じられるのは現代的な松葉杖と衣裳だ。そして障害者が一所懸命に歩く姿や、最後に神への美しい歌に観客が「感動する」というのは、いわゆる「感動ポルノ」、つまり健常者が自らの同情心の美しさに酔うために障害者を消費することと紙一重ではないか。その違和感が、終始頭から離れなかったのだ。 同じ2月、日本で障害者と健常者混成で作品を創り続けている「インテグレイテッド・ダンス・カンパニー 響-Kyo」の公演があった。ここは振付に外部の一流のアーティストを招き、これまでも鈴木ユキオや、障害者と踊るダンスの先駆者アダム・ベンジャミンなどの振付作品を上演してきた。今回はコンドルズや自分の主宰カンパニーなどで活躍中のスズキ拓朗とフランス・コンテンポラリー・ダンスのパイオニア、ディディエ・テロンのダブルビル。とくにスズキが宮沢賢治をモチーフにした『パワポル』が面白かった。なんと車椅子に照明をつけて銀河鉄道風にして走り回り、障害者が車椅子を押したりする。一瞬膝関節が逆に曲がって見えるのでひやりとするのだが、全ての出演者の身体を隔てなく感じることができた。これはスズキの側から、身障者の方に一歩踏み込んだ結果だと思う。 ダンスとはとりもなおさず「身体を見る芸術」である。そしてそれは「普段生活している身体そのもの」でもある。何を見て、何を受け取るのかを、演じる側も見る側もつねに考えなくてはならないだろう。第30回 「感動ポルノ」にならぬよう、何を見て、何を受け取るのか。 2020年のパラリンピックを控えてか、このところ障害者との協働プロジェクトが続く。昨年は聴覚障害を扱った『ノイズの海』(南村千里・ライゾマティクス)があったが、今年の2月にはスコットランドから松葉杖(ヒジに装着する「エルボークラッチ」)で踊るクレア・カニンガム『Give Me a Reason To Live』が来日した。イギリス圏はこの手の先駆で、彼女は障害者支援プログラム「アンリミテッド」にも参加している。 うまく動かない足と松葉杖で舞台上手から中央まで懸命に歩き、その後奥の壁に向かっていく。ある意味、「それだけ」のパフォーマンスではある。ボッシュの絵に描かれた物乞いをする身障者からの着想だそうだ。最後は壁に寄りかかってバッハ「キリストは死の縄目につながれたり」を歌う。もともと歌の訓練を受けており、実に感動的だ。そういう感想がネットにも溢れた。 しかしオレはこの作品に違和感をもったのだった。 こうした自らの障害をテーマにした作品に対して、我々は何を期待して見ているのだろう。身障者特有の動きだろうか。それは間違っていない。全ての身体をユニークな存在と捉えるコンテンポラリーダンスにおいて、障害者の身体にも、鍛えられたダンサーの身体同等の表現の可能性は開かれているからだ。しかしそこで当然のように期待し、受け取る「感動」とは何か、一度考えてみる必要がある。 まずはタイトルだ。なぜ「自分が生きる意味」を他者に求めるのか。障害のあるなしに関わらず、それは自らつかみ取っていくものだろう。しかも最後は神に祈って(歌って)終わりとは。 オレも左足だけだが膝から下の筋肉ブロックと共に神経が潰れて麻痺してしまい、一生、装具無しには歩けないと言われていた時期がある。幸いリハビリで歩けるようにはなったが、もちろん絶望の度合いは症状によって違う。あるいは彼女が懸命に立ちあがり歩く姿がすでに闘いなのだというかもしれない。あのタイトPrifileのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com乗越たかお
元のページ
../index.html#192