eぶらあぼ 2016.10月号
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のである。 ただダンスが爆発的に進化するここ100年ほどの過程で、一瞬だけ理論が実践を上回った時期があった。前も書いたポストモダンダンスにおけるアメリカのダンスだ。ダンスという概念の領域が理論によって拡大する功績はあったが、ダンス本来のダイナミズムからはずれていくとともに行き詰まった。1980年代、入れ替わるように登場したヨーロッパのコンテンポラリー・ダンスによって、アメリカはモダンダンス以降50年間続いたダンスのリーダーの座を取って代わられたのである。 とはいえコンテンポラリー・ダンスも、初めは新しさを追求するあまり「新しさアピールの時期」が続いた。それは人々を燃え上がらせた。しかしやはり頭で考えた「新しさ」はダンスのダイナミズムからズレていく。「新しいけどつまらん作品」が量産され、しまいには「踊らなくてもダンスだ!」というノンダンスまで生んだのである。 そうした「美術偏重・身体性軽視の流れ」というズレへの反発から、今また強い身体性を持つストリートダンスやコンテンポラリー・サーカスがダンスに襲いかかっており、ものすげえ面白いことになっているのである。 ダンスはいつでも面白い。「面白いダンスがない」という奴は、自分がズレたところにいることに気づけ。枝葉に取り憑かれ、「川を見る者」になってはいかんぞ。第24回 「川を見る者」にはなるな。とくにパン屋。 腕の良いパン屋がいて、とても研究熱心だった。 美味しいパンを焼くにはどうしたらいいか、日々考えていた。特に材料は研究に研究を重ねた。小麦粉の研究に没頭した。「これが大切なんだ!」と男は言い、自分で最高の小麦を作った。その最高の小麦を最高に挽くために最高の粉ひき機を作った。最高の粉ひき機を最高に滑らかに動かすため、最高の水車小屋を作った。そして最高の水車小屋が最高に動くよう、川の状態を研究した。来る日も来る日も男は川辺に座って川の研究に没頭した。店は閉まったままだ。「ちょっとはパンを焼いたらどうだ?」と友人が問いかけると、男は決まって答えた。「なに言ってるんだ! これは大切なことなんだよ!」 このパン屋を理屈で説得するのは難しいと、この小話を書いた作者も言っている(たしかトルストイか誰かだ。学生の頃に読んで覚えていた話なので、申し訳ない)。 なぜこんな話をしたかというと、同じことがけっこうダンスやアートの界隈ではあるからだ。特に研究者や評論家に。自分の考えるダンス像があり、それ以外は認められない! と声高に否定するヤツら。まあ覚えたての音楽以外は認めない! という中二病と変わらんのだが。 ダンスはダンサーの身体が感じている、「本人も言語化できるほど明確化しているわけではない何か」を頼りに、呻吟して作られていく。研究者がいくら「新しいダンスとはこういうものでなくてはならない」といったところで、ダンサーにしてみれば、そんなもんのために踊るヤツなどいねぇよ、というところだ。ダンスのダイナミズムを理解しない者が能書きばかりこねくり回したところで、そして連中が「これは大切なことなのだ」と力説したところで、パンひとつ焼けなくなった男同様、何も生み出すことはないPrifileのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com乗越たかお……誰もオレを知らぬ224

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