eぶらあぼ 2016.3月号
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第17回 「抽象的なダンス」に気をつけろ! たまに「私は乗越さんに嫌われているから…」といってくる人がいて、キョトンとさせられる。そんなことないぞ! オレは嫌ったりしない。興味がないだけだよ! たしかに争いごとは好きな方だが、仮に怒ってもすぐに忘れる。ネガティブなことに労力を割きたくないのだ。…ということで、今月も楽しくダンスの話を始めよう。 さて、クソつまらない抽象作品とやらを延々と見せられるくらい腹の立つこともないな。「意味ありげな動きの繰り返し」とか「舞台上を無駄に走り回る」とか「なにやってんだかさっぱり伝わってこない小芝居」とかね。 実は「抽象的なダンス」の歴史は浅く、百年もない。それ以前のダンスは、自分で踊るか、曲芸・見世物か、必ず物語をともなうものだった。20世紀も半ばになって、アメリカでジャドソン・ダンス・シアターやポストモダンダンス等の抽象的ダンスの波が起こったのである。そこでは「従来のダンスの技術は既成概念にとらわれたもの」として、ことごとく疑い否定された。服を着て脱ぐ、といった日常的な動きをダンスだといったり、ずっと観客に話しかけるだけなど、ダンスそのものを解体していったのである。ダンスの領域を広げる意味では革新的なことだった。 それは瞬間的にだが、「理論がダンスを上回った時期」でもあった。「これもダンスだ」と言いくるめられれば、ダンス経験ゼロの作曲家でも美術家でも評論家でも「振付家」と称してスポットライトを浴びられたのだ。そしていまだに、ダンサーのみならずこの時代にかぶれた連中は、「あの夢よ、もう一度」と妙な下心を抱いていることが多い。自分のすごい理論でスポットライトを浴びたい、いや浴びPrifileのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。乗越たかおるべき。なぜならスゴいから、という“中二病”だ。しかし先月オレが書いたような「まずダンサーの身体がある」というリスペクトがないので、頭でっかちの、鼻持ちならないものができあがる。理論がダンスを導くかのように考え、ときにダンサーを理論のための道具のように扱ったりするのだ。 それが清新に映る時もある。しかしね、当のジャドソンの中心人物であったスティーヴ・パクストンからして、当時を振り返ってこう言っているのだ。 「人の動きの滓(カス)を芸術に変容させようとして、だれもがあまりに似通ってしまった」 カスはやっぱりカスだった。「シロウトの身体のほうが面白い」というのも、数分間がせいぜいだからな。結局1980年代以降、コンテンポラリー・ダンスの波によって、世界のダンスの中心はアメリカからヨーロッパへと移ることになる。 抽象バレエの創始者といえるジョージ・バランシンは「自分のスタイルは抽象ではなく単に物語がないだけ(プロットレス)だ」と言った。そう。抽象作品でも優れたものは根底にしっかりと意識の流れを感じて引き込まれるものである。アイディアや理論を当てはめただけのものにはそれがない。 ダンスとは人間という生物の本能に根ざしたものだし、抽象もまた、知性を持つ人間の本質なのだ。ともに逃れられない人間の宿痾だ。しかしいまや、アイディア一発で通用するほど甘い世界じゃないのだぜ。266

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