eぶらあぼ 2016.2月号
195/205

第16回 『若者に、「評論」は必要ないと思うのだ』 あけましておめでとうございます。 昨年3ヵ国の取材に協力してくれたクラウド・ファンディングのコレクター(出資者)をはじめ、じつに多くの人に支えられ、仕事もいろいろに広がり、さしあたりは健康で、酒も旨いし洗濯物はよく乾くし、オレは本当に幸せ者だ。 だが健康については万全というわけではなく、右目の眼球にリンパ液が溜まる「リンパ嚢胞」というのができた。米粒大なのだが「でかい目ヤニだなあ」と思って綿棒でグリグリしても取れない。なぜなら眼球の表面(結膜)にできたものだから!ただちに視力に影響するものではないが、薬も効きにくく完治には手術しかないというので経過観察中だ。ただでさえドライアイなのに、新参者の嚢胞が、まぶたの縁から顔を出して、もう乾く乾く。まぶたの中でゴロゴロするんで始末に悪い。コレクターの皆さんから「正月は休め」と優しい言葉をいただき、正月はモニターの類を一切見ないで過ごしたよ。 で、もうすぐ始まるのが、いまやアジアの若手ダンサーの登竜門となった横浜ダンスコレクション。若手部門には大学に在学中の人もけっこう応募している。終わった後に気楽に話しかけてくれるのは良いんだが、「どうでしたか?どこが駄目でしたか?どうしたらいいですか?」と聞いてくる人が多い。しかしね、若いうちは他人の評価など気にせぬことだ。学生さんは思うがままに作って、満足いかない原因を自分自身で考えた方がいい。どうしても意見を聞くなら教育者だ。それぞれの長所を見つけて伸ばしてくれる(んじゃないの、知らんけど)。 評論家の言葉が必要なのは「ダンサー」だけだ、とオレは思っている。ここで言う「ダンサー」とは、「一生かけて踊っていくのだと決意した者」のことである。自分のダンスをもって社会と対峙し、能力が足Prifileのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。乗越たかおらなければ、いや、ときに能力以外のことで切り捨てられる理不尽さすら乗り越えていく覚悟をした者たちのことだ。課題で合格点を取るために作品を創る学生さんとは、根本的に違う。評論家の言葉はそういう「ダンサー」との真剣勝負のために研がれた、諸刃の剣なのである。 とかく経験の浅い人は「誰かのひと言でパッと何かを悟り、自分のダンスが飛躍的に進化する」なんて妄想を抱きがちだ。こういうのがキラキラした目でやってくる。ないない。マンガの世界じゃないんだから。そこでもっともらしい「指導」をされて気持ちよくなったとしても、何の役にも立たないよ。 なぜなら将来モノになるダンサーにとって、必要なことは全て自分の身体が知っているものだからだ。言語化されたり形になっていないだけで、「ここの、このムズムズをどうにかしたい」という次の課題は、常に疼いている。その体感のない者が「誰かのひと言でパッと変われる」ことに期待する。ドラえもんの助けを求めるのび太と同じだ。だがぶっ倒れるまで踊り尽くさぬ者に、進化なんぞがあってたまるか。 評論は導くものではない。模糊とした挑戦に対し、歴史や世界の中での位置を見極めて「こういうことなのではないのか」と言語化することが第一だ。そこでアーティストが、自分がやっていたのはこうだったのかと「発見」するかもしれない。 だが、つねに身体が最初にあるのだ。そのことをダンサーは決して忘れてはいかんぞ。244

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です