eぶらあぼ 2015.9月号
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第11回足が速いのも障がいがあるのも「ユニークな身体」なのだ かつて障がい者と共に踊るイギリスのダンスカンパニー「CandoCo(カンドゥーコ)」に、伝説的なダンサーがいた。障がいにより腰から下がないのだが、筋肉の発達した腕と手だけでヒョイヒョイと歩き回り、床でも階段でもスルスルと登ったりする。圧巻なのは、両手で立った体勢から、ゆっくりと「片手倒立」をするのである…。おわかりだろうか。まずは両手を水平に伸ばす様をイメージしてくれ。そしてそのまま身体を横に90度回転させる。片手が床に着き、身体はいわば鯉のぼりのように真横に伸びる。通常なら下半身の重みで支えられないが、彼は腰から下がないからこそバランスを取ることができたのである。「この身体」でしかできない動き。「障がいがある身体」を「ユニークな身体」として見せているわけである。それは身長がでかいとか跳躍力があるといった「ユニークさ」と、本質的には変わらない。 このCandoCoの主宰者だったアダム・ベンジャミンが、障がい者と共に踊る日本の「インテグレイテッド・ダンス・カンパニー 響kyo」にダンス作品を振り付けたので、オレがアフタートークに呼ばれて行った。 こうした試みは「障がい者なのにがんばっていてスゴいね」というレベルに留まっていては先はない。運動能力が高い健常者が踊っても魅力的なダンスを作ることは難しい以上、障がい者にとってもそれは容易なことではないからだ。繰り返すが、障がいのある身体をユニークな身体にまで突き詰めていかなければならないのである。 作品を観たが、その点アダムはさすがだった。ある意味、容赦ない。麻痺して固まってしまった手の形を皆で真似て並べ、造形的な美しさを創ったりしていたのだ。 トークでオレはアダムに「障がい者に優しい社会を作るべきだけど、弱いと決めつけて障がい者を腫れ物を扱うようにすることが一番良くないよね」と言った。するとアダムは慎重に言葉を選びながらこう言ったのだ。「それはそうだけど、もうひとつ、『弱さ』や『遅さ』もまた、身体が持っている魅力のひとつだと気づくことが大切だ」 オレはなるほどと思った。ダンスの世界では「自由な身体がどうこう」という議論は結構するけど、けっきょくそれは「もともと動くダンサーの身体の自由度をさらに広げること」に過ぎなかったりする。狭い話だ。しかしそういう「強い・速い」とは全く別の文脈で「弱いままに魅力的な身体によるダンス」というものは十分に成り立つはずだ。 てか、すでに1960年代に日本で誕生した舞踏は、まさに「立ちたくても立てない」「立ったところで、それが精一杯の死体のような存在」といった身体のあり方を追求していた。さらに自分の意志とは無関係に動く老人性の痙攣までも「ダンス」として観るのが日本のダンスの幅の広さなのだ。 コンテンポラリー・ダンスの基本は、「優れた才能を持った人が特殊な訓練によって実現するバレエ」などとは違い、「あらゆる人はユニークな身体を持っており、その身体でしかできない動きがある。あらゆる人は踊ることができる」というもの。障がいがあろうと、運動能力が高かろうと、共に「ユニークな身体」であることに変わりはないのだ。Prifileのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。乗越たかお255
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