eぶらあぼ 2015.7月号
202/213
第9回疑惑うずまくコンテンポラリー・ダンス 人間、信頼が大切だが、ときに疑うことも必要だ。それが愛する相手ならなおのこと、「深い理解と新しい刺激」を味わえるかもしれない。 えーとね、ダンスの話だ。それも「コンテンポラリー・ダンスとは何か」というちょっと高尚な話である。「何でもアリ」で定義づけしづらくなったコンテンポラリー・ダンスを理解する縁(よすが)として、オレが重視しているのが「疑う」ことなのだ。 たとえばこの連載の第7回でも書いた「サイトスペシフィック・ダンス」は劇場という「踊る場所」を疑い、屋外など様々な場所で踊ってみせるものだった。 さらに「音楽」。「ダンスは音楽に合わせて踊るもの」と思いがちだが、その前提を疑うとどうなるか…というわけで、無音で踊ったり、ノイズや朗読など音楽以外のものでも踊ってきた。およそ世界を見渡しても、「音楽と無縁な伝統舞踊」は皆無なのだから、歴史的にみても画期的な試みだったと言える。 「照明」もそうだ。基本的にダンスは「見る芸術」なので、照明は「いかにダンサーの特に顔を効果的に照らすか」が重要だった。しかしコンテンポラリーでは「身体のラインを見せるため、顔が陰になってもいいから逆光で」ということも多い。これで日本の照明スタッフが振付家に猛抗議しているのを見たことがある。30年前の黎明期の頃だ。演劇やコンサート、バレエの現場で「主役の顔に光が当たっていない」などありえない以上、同業者から「この照明は腕が悪いな」と思われることを恐れたのだった。 さてストーリー性のある作品の場合、「物語」もまた疑う対象となる。「ダンスは物語を説明する道具ではない。動きが全て。物語はいらん」という考えは1950年代のマース・カニンガムの頃にはすでに出ていた。さらに1970年代にタンツテアター(演劇的ダンス)を掲げるピナ・バウシュの登場によって、物語との新しい関わりが出てきたのだった。物語は必ずしも一直線に進む必要はなく、個々の断片の全体像が、大きな物語を紡ぎだしていくことも可能になったのである。 そしてしまいには「振り付け」自体も疑うようになった。何をもって振り付けと呼ぶかだが、昔のように「大振付家が全ての振りを作る」ということは稀だ。動きはむしろダンサーが作って「振付家」がそれを作品にまとめる工房形式が圧倒的に多い。また「振付家が振り付けない手法」もある。ルールだけを決めて、瞬間にどう動くかはダンサーに委ねるわけだ。さらには歯を磨いたり髪を洗ったりといった「日常的な動き」を持ち込むこともあり、最終的には「踊らない、ヘタすると動きもしないノンダンス」という、金返せ事案にまで発展した…。 どうだろう、この疑惑に満ち満ちた関係は。全ては「新しい価値観の創造」のため、あらゆる既成概念を徹底的に疑ってきたのだ。そしてそれが思考停止に安住させることなく、「常にフレッシュな身体(表現)の関係」を作り続けてきたのである。Prifileのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。乗越たかお259
元のページ