eぶらあぼ 2014.10月号
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32 これまで数々の来日公演で話題を呼んだ巨匠演出家ハリー・クプファーが、満を持して新国立劇場2014/15シーズンの開幕公演を手がける。演目はワーグナー最晩年の楽劇《パルジファル》。クプファーはこれまで、この作曲家の主要作品のすべてを演出、舞台を脱神話化しながら、社会における人間の普遍的問題を鮮やかに抉り出してきた。宗教的な内容とも相まって、第1幕終了後の拍手が伝統的に禁じられてきたこの曰くつきの作品についても、彼の態度はしごく明快だ。 「『舞台神聖祝祭劇』という仰々しいタイトルが付いていますが、この作品はあくまでも通常のオペラや演劇と同じ舞台作品であり、教会のミサとは違うのですから、拍手をして当然でしょう。観客は祈るためではなく、感動したり、衝撃を受けたりするために劇場に来るのです」 彼の作品解釈も、こうした考えの延長線上に成り立っている。 「ワーグナーは教会という制度の中で、イエスのもともとの教えが歪曲・誤用され、当初の人間的な心情が失われていったことへの批判を《パルジファル》に込めたのであり、とりわけ、聖杯騎士団の描き方にそれが表れています。人々の苦境を救うための団体なのに、本来の志は失われ、騎士たちは苦しむ聖杯王に何らの憐れみを覚えることもなく、ただ自分たちが生き永らえるため、聖杯の開帳を彼に強要するのです。アムフォルタスの脇腹の傷は単なる個人的なものを越え、時の流れがキリスト教に刻みつけたドグマという傷の象徴であり、『救済者に救済を!』という謎めいた幕切れの言葉も、硬直して非人間的になってしまった宗教をもとの姿に救い出せという願望として私は理解しています」 このような批判的視点は、クプファーが1992年に手がけたベルリン州立歌劇場での演出ですでに鮮明に打ち出されており、DVDの映像からも、ト書に反してアムフォルタスの絶命とパルジファルの困惑が描かれる、ショッキングな結末を確認することができる。となれば私たちの関心は、今回の演出全体が以前のものとどう違うのか、という点におのずと行き着くだろう。20余年を隔てて作品解釈はどのように変化し、深まったのか? 「全体的な視点として、仏教の要素があげられます。生涯を通じて東洋の思想にも強い関心を抱いていたワーグナーは、本来相容れないものと考えられてきた二つの宗教を天才的なやり方で結びあわせました。両者は『人間らしい生き方の追求』という究極の目標を共有しており、そこに至る道が違うだけなのです。例えば、『共苦によって悟りを得る』という予言の言葉は『悟達』という仏教の根本的な概念を反映すると同時に、生き物に対する憐みを含めた『共苦』の思想はキリスト教にも共通しています。一方、何度も生まれ変わらなければならないクンドリーの呪いは仏教の『輪廻転生』という思想と結びついており、キリスト教の教義では捉えきれません。日本の方々のほうが、われわれヨーロッパ人よりも、彼女の問題を理解しやすいのではないでしょうか」 まさに今回の上演の“時と場所”に適ったコンセプトというわけだが、仏教をも視野に入れた解釈はすでに2005年のフィンランド国立歌劇場での演出(06年、11年再演)において萌芽が見られる。クプファーの新たな境地を示すものとして称賛を集めたプロダクションだが、今回はこの方向を推し進め、さらに練り上げたものとなるだろう。上演への期待は募るばかりだ。具体的な細部については上演を見てのお楽しみとして、最後に演出家の言葉から全体の土台をなす枠組を感じとっていただこう。 「すべての登場人物は旅の途上にあり、全3幕を通し、救いとは何かを探し求めて“道”を歩んでゆくのです。そして幕切れでは、聖杯に集約される理念が地上の物質的なもの、すなわち教団の物神崇拝から解き放たれる瞬間を視覚化する一方で、『もう一つの選択肢』を可能性として提示します。ただし2つのうち、どちらが正しいということではありません。この作品ではどの登場人物も正義の味方と悪人にはっきり分けることのできない両義的な存在です。それと同様、幕切れも最終的な結論を打ち出すのではなく、さらなる問いを観客に投げかけるものとなるでしょう」ハリー・クプファーHarry Kupfer/演出すべての登場人物は旅の途上にあるのです構成・文:山崎太郎 写真:寺司正彦※この記事は、新国立劇場オペラ広報のインタビュー資料に基づき再構成したものです。

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