【特別寄稿】追悼 クラウディオ・アバド(1933-2014)

1987年ウィーン・フィル日本公演から 写真提供:サントリーホール

 クラウディオ・アバドが80歳で他界したというニュースを聞き、「ああ、80歳まで音楽されて本当に良かった!」と安堵した。正直な気持ちだった。
 ミラノを代表する音楽家ファミリーのプリンスとして生まれ、35歳でスカラ座の首席指揮者となり、以来18年間スカラ座に君臨。70年代はミラノとウィーンを溌剌と往復する、“若きアドニス”、クラシック音楽界のスーパースターだった。
 初来日は1973年。若手を起用するに敏な、ウィーン・フィルとの演奏旅行であった。81年には芸術監督としてスカラ座を率いて来日し、最高のキャストと演出で《シモン・ボッカネグラ》、《セビリアの理髪師》を上演し、日本中を沸かせた。クライバーが《ラ・ボエーム》と《オテロ》を指揮したのもこの時のことである。
 私がアバドと直接話をするようになったのは1987年3月、サントリーホールのオープニング・シリーズの最後を飾る、ウィーン・フィルとのベートーヴェン交響曲全曲演奏会の時であった。もの静かで、話し声も小さく、指揮者にありがちな権威的、威圧的なところがまるでない。忙しい日程にもかかわらず、食事会にも快く参加してくれ、「日本ウィーン・フィルハーモニー友の会」の設立にも立ち会って、スピーチまでしてくれた。

話し手ではなく聞き手

 アバドは“指揮者達の父”として有名な、ウィーンのスワロフスキー門下。メータとは年齢も近く、親友だったとのことで、二人の思い出談の中には必ず、ウィーン楽友協会の合唱団員としてブルーノ・ワルターやカラヤンの演奏会で、歌いながら指揮法を学んだという話が出てくる。つまりアバドは、イタリアとウィーンの音楽のスタイルと言語を身に付けている。ところがドイツ語が流暢ではない。と思ったのは間違いだったのだが、そもそも彼は言語で表現することに流暢ではないのである。子供の時から話し手ではなく聞き手だったと、自身、昨年のインタビューでも述懐している。
 まさにその性格が、彼の音楽創りにも大きく反映しているように思う。カラヤンがベルリン・フィル(BPO)を辞した時、その後任者にアバドが選ばれた。ベルリンでの練習を何回か聴くことができたが、話し下手でテキパキと練習を進めるタイプではないため、カラヤンの練習に慣れていたBPOの団員には戸惑いがあったようだ。ところが本番になると、激変。生き生きとした大きな波のようにうねる音楽が生まれ出る。それは彼の聞き上手な性格が反映し、団員に自発的な演奏を促すからなのだろう。文学・芸術への深い洞察に基づく作品解釈にも定評があった。

音楽は最高の治療法

 BPOとの来日も92年から98年まで4回を数え、2000年の来日を楽しみにしている時、「アバド胃癌に倒れる」という激震が音楽界を襲った。胃を全摘出する大手術だったにも関わらず、見事復活。11月にはBPOと共に来日して、《トリスタンとイゾルデ》という長大なワーグナーの楽劇を指揮したのである。しかしカーテンコールに現れたやせ細ったその姿に、聴衆は息を呑んだ。サントリーホールでの演奏会で身近にみるアバドの姿は苦行僧そのもので、近寄りがたい気迫がみなぎっていた。
 2002年、BPOを退いてからは、ルツェルン祝祭管弦楽団を再編成し、世界最高のオーケストラと称されるまでに発展させた。また、若者達の育成にも愛情を注いだ。望む作品、共演したいソリストを集めての晩年の演奏会では、マーラーの作品を取りあげることが多かった。『私は、自分の苦痛を通して、偉大な作曲家の苦しみを共感できるようになった。例えばマーラーのように。いかなる苦難を乗り越えて、彼が偉大な作品を生み出したことか!私は自分の苦しみを通して、音楽がその最良の治療法であることを真に理解することができた』
 胃癌を克服して奇跡のように指揮台に戻ってきたアバド。彼を癒したのは、まさに音楽の力だったに違いない。
文:眞鍋圭子(音楽ジャーナリスト)
(ぶらあぼ2014年3月号から)

眞鍋圭子◎音楽ジャーナリスト、音楽プロデューサー
音楽ジャーナリストとして活躍する中、サントリーホールの設立に携わり、現在エグゼクティヴ・プロデューサーとして、ウィーン・フィルなど様々な企画をプロデュースしている。
主な著書:『カール・ベーム』『素顔のカラヤン』