トルステン・ケール(テノール) 《魔弾の射手》を語る

 今やトリスタン、ジークフリートをはじめとするワーグナーのヘルデン・テノールの役を世界中で歌うようになったトルステン・ケール。日本では2014年、コルンゴルトの《死の都》の主人公・パウル役で新国立劇場に客演したのが記憶に新しい。その彼がこの7月、「兵庫県立芸術文化センター 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2018」で、若いころから歌ってきたマックスを日本のファンに披露する。演目はワーグナーの先達ウェーバーの《魔弾の射手》。音楽によるドイツ・ロマン主義の幕開けを告げる作品だ。

歌手を志した深い理由とは

 私はもともとオーボエ奏者でした。歌手に転向しようと思ったのは、第一に楽器を通さずとも自分の体で音楽ができる、第二に言葉(テクスト)を通して音楽に独自の表現を加えることができる、第三に演技を通して音楽を肉体化できるからです。

マックス役を歌って思うこと

 キャリアの初期、20代半ばから歌っています。ワーグナーの諸役に較べると歌う時間は短いし、テノールとしては声域も低い。バリトンで歌手のキャリアを始めた私にとっても無理がなく、最初から気持ちよく歌えました。デビューはストラスブールの歌劇場、とてもロマン的で自然の息吹が吹き通うような演出でした。以来、40〜50回は歌っているでしょうか。今度、同じ時期に東京二期会で上演されるコンヴィチュニーの演出もハンブルクで経験しています。

《魔弾の射手》と現代

 《魔弾の射手》は深い森と緑なす野山に囲まれたドイツの風土と深く結びついています。いわば自然と一体化したいという人間の憧れを表現した作品、神話に根ざすメルヘンで、幽霊や悪魔、魔弾などの怪奇現象も民衆の想像力が生み出したものです。しかし第3幕では隠者の発言によって、こうした迷信は否定され、倫理的なメッセージが打ち出されます。人は困難な状況を前にすると、無力感や絶望から超自然的な現象に助けを求め、「偽りの予言」にすがりつくというわけです。現代でも多くの人が現実から逃避して、いかがわしい預言やエセ宗教によりどころを求めたりしますよね。
 そういえば、政治家が皆の前で自分の過ちを謝罪し、悔い改めを誓う光景をテレビなどでよく目にしますが、これなどもラストの場面でのマックスと同じです。犯した罪を正直に告白して誠実に悔いれば、人は許されるべきだとこの作品は示していると思いますが、ただ、そのためには自分の行為を見つめなおし、じっくりと反省するための時間が必要になるのです。アガーテや村人たちの信頼を取り戻すため、マックスに試練の一年を課す幕切れの意味もそこにあるでしょう。

演出家との共同作業について

 ほとんどすべてのオペラには現代の問題に結びつく要素が見つかると思います。ただし演出家が単なる自己顕示欲からスキャンダラスに作品をでっちあげる最近の傾向には感心しません。
 私は新しいプロダクションに参加する場合はいつも、まずは演出家に役や作品をどう解釈するかを聞いて、自分がそれに共鳴し聴衆を説得できるかを考えるようにしています。ミヒャエル・テンメさんと仕事をするのは初めてですが、良い共同作業になることを願っています。
取材・文:山崎太郎
(ぶらあぼ2018年6月号より)

佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2018《魔弾の射手》
2018.7/20(金)、21(土)、22(日)、24(火)、25(水)、27(金)、28(土)、29(日) 各日14:00
兵庫県立芸術文化センター
問:芸術文化センターチケットオフィス0798-68-0255
http://www.gcenter-hyogo.jp/