小林道夫(チェンバロ)

名匠が5年ぶりに対峙するバッハの奥深き世界

 我が国の歴史的鍵盤楽器のパイオニアである小林道夫が、5年ぶりとなる新録音『J.S.バッハ:インヴェンションとシンフォニア』(マイスター・ミュージック)を発表する。溢れるような音楽への愛情によって、バッハが子弟への教育を第一の目的に書いた“練習曲”から現れ出でる、限りない魅力と滋味。
 「60年以上の演奏生活の中で、多くの第一線のソリストたちに教わったことが身についているならば、それを若い世代に伝えていくのは義務であり、大きな楽しみでもあります」と、小林自身の言葉は、あくまで謙虚だ。
「昨年9月に大分で『平均律クラヴィーア曲集第1巻』を全曲弾き、ポリフォニーの曲の“時間の流れ”について、少し開眼した思いがあったので、その延長でいけるかなと思ったのです。録音の時は常にそうなのですが、自分で聴き返すとやり直したく思えてしまって…」
 尽きることのない探求心を明かす名匠。がっちりとした構築感の中に、柔らかな音楽の愉悦が包みこまれているような演奏は、まさに小林芸術の真骨頂であり、聴く者を魅了する。
 そして、個々の楽曲へ向けた深い眼差しはもちろん、全30曲の流れの良さも印象的。しかし、「全体の構造は、特に意識はしませんでした」と小林。
「ただ、全体に基本的なテンポや流れといったものを感じ取れます。ひょっとすると、『テンポ・オルディナーリオ』と言われる、“速すぎず、遅すぎず”のテンポ感が身に付いたのでは? と希望的観測もしております。それが、ある種の統一感を生んだのかもしれません」
 楽譜は新バッハ全集に基づく最新の実用版(2014年)を使用。
「自筆譜のコピーも手元に置きながら、できるだけ元の形に近く弾きたいと心を配りました」
 そして、各楽曲へどういう視点で対峙したのか、演奏家自身が譜例を交え、時に隠されたヌメロロジー(数秘学)も明かしつつ、詳細にしたためたライナーノーツは、実際の演奏にも意味の深い道しるべに。
「この作品は、教材としての意義が第一。どう考えて、このように弾いたのかを知っていただくことは意味があると思ってのことです」
 クラシック界の展望について尋ねると、「沢山の優秀な演奏家が育っています」と前置いた上、「あまりに経済中心の世の中になり、音楽の根本にあるべきものが見えづらくなっていることが問題。一方で、時代と遊離することも不可能。そこに音楽家の務めがありそうですが、とても難しいですね」と答える。
 かたや、古楽の成果をモダン楽器演奏に導入するH.I.P.(Historically Informed Performance)がもてはやされている。しかし、何十年も前から実践してきた名匠は「今はピアノを弾くのが楽しく、これまで出せなかった音が出ると面白くて…チェンバロには申し訳ないですが…」とユーモアを交えて語った。
取材・文:寺西 肇
(ぶらあぼ2018年6月号より)

CD
『J.S.バッハ:インヴェンションとシンフォニア』

マイスター・ミュージック
MM-4033
¥3000+税
2018.5/25(金)発売